主語に相当するものの抱合

近藤由紀さんが今翻訳している tokanto tokanto というサケヘのついた神謡(CM19.4)の冒頭近くに次のような文がありました。アイヌ語の抱合の可能性を考える上で重要な例だと思うので、メモを作っておこうと思いました。

shiripirikawa shikush kara ash aine
天気が良いときには、日光にさらされ

shikush chire ashkane okai ash
その日ざしでじりじりと焼かれながら過ごしていた。

抱合というのは、動詞が、目的語などに相当する本来は自立的な名詞を自己の中に取り込んで、新たな複合動詞を形成する現象を指します。たとえば、

nikeure an nitokpa an kane Iki an aine
木を削り、木を刻んでいるうちに(CM20)

にある ni-keure an 「わたしは木を削る」、ni-tokpa an 「わたしは木を刻む」(いずれも木彫をしている情景)は、それぞれ二項動詞(他動詞)の keure「〜が〜を削る」と tokpa「〜が〜を刻む」が、目的語に相当する名詞 ni 「木」を抱合して、一項動詞(自動詞)になったものです。それは、一項動詞に付く一人称の人称接辞 an がこれらの動詞に付いていることから明らかです。つまり、ni-keure, ni-tokpa が人称語幹になっているのです。

このように、抱合される名詞は多くは目的語に相当するものなのですが、主語に相当するものが抱合されることもあります。たとえば次のような例がそれに当たるのではないかと思われるのです。

ne inumpe ... koi yanke
その炉ぶち木は波に打ち上げられた(『アイヌ神謡集』)

yanke 「〜が〜を陸に揚げる」の主語に相当するものは koi 「波」ですが、それが抱合されて koi-yanke 「波が〜を陸に揚げる」という一項動詞ができています。この一項動詞の主語は、yanke の目的語に相当するものである ne inumpe 「その炉ぶち木」なのです。日本語に翻訳するときは koi-yanke 「〜が波によって陸に打ち上げられる」などのようにするといいと思います。

また、次の例は、rera 「風」が sujesuje 「〜が〜を揺さぶる」に抱合されていると見られます

Tanto rera jupke wa nitek rera sujesuje sir okaj.
今日は風が強く、木の枝がそよいでいる。(沢井トメノ)

但しこれらの例は yanke が koi を、また、sujesuje が rera を抱合しているとみなしうる確実な例ではありません。珍しい語順(目的語相当語 + 主語相当語 + 動詞)からそう推定できるというに過ぎません。つまり、主語相当要素が動詞に接合していると見ることもできるということです。その点で、近藤さんの作りつつあるテキストの例は、主語に相当する名詞が抱合されうることを確実に示しています。

すなわち、shikush chire ash 「わたしは日ざしでじりじりと焼かれる」では二項動詞 chire 「〜が〜を枯らす」が主語に相当する名詞 shikush 「日ざし」を抱合して一項動詞になっています(shikush-chire 「日ざしが〜を枯らす」、すなわち「〜が日ざしを受けて枯れる」)。それはこの動詞に一項動詞の人称(この場合一人称)を示す ash が付いていることから明らかです。shikush-chire が人称語幹になっているのです。

また、その上の行の shikush kara ash 「わたしは日ざしにさらされる」も同じ例となるかもしれません。kar (= kara) は「〜が〜(照射)を受ける(わたしが日ざしを受ける)」あるいは「〜が〜を照射する(日ざしがわたしを照射する)」という二項動詞ですどちらの意味かまだ確定するだけの証拠がありません。後者であれば shikush-kar は主語に相当するものの抱合の例になります。