アイヌ語数詞の特異な算術構造

アイヌ語の基本数詞は、20を表す hot を除いて、たとえば2を表す tu は、「2匹の犬」を tu seta というように、名詞(この例では seta 「犬」)を修飾するものだから、数連体詞と呼ばれることもあります。同じことを seta tu-p 「犬2匹」と言うこともできます。これは、tu が 形式名詞 -p を連体修飾したものです。ですから tu-p は tu の名詞形と見てもいい。ちなみにこの場合、seta とtu-p が同格となって並んでいます。なお 20 の hot は名詞です。「20匹の犬」は、hot seta とはならず、hot ne seta といい、繋辞(コピュラ)ne を挟む必要があります。

数連体詞の意味を示すときは、たとえば tu 「2つの〜」と書くことにします。「〜」は数連体詞が被修飾語である名詞を捉えるために伸ばした「腕」だと理解してください。

ところが動詞も名詞を修飾することができます。Onon ek a seta ne ru estap an ne? 「どこから来た犬なのだろう」という文に見られる onon ek a seta 「どこから来た犬」では、動詞 ek 「〜が来る」を中心とする連体修飾句が名詞 seta を修飾しています。(この動詞の一本の腕「〜」が seta を捉えています。)

ともに連体修飾ができるという点で動詞と数詞は似てるといえます。ただし、数詞は述語として働くことができません。Seta ek. 「犬が来る」はいいのですが、Seta tu. 「犬が二匹だ」とはなりません。 しかし、たとえそのような違いがあったとしても、動詞と似ている点は他にもまだあるのです。

アイヌ語に applicative と呼ばれ、動詞について別の動詞を派生させる接頭辞があります。たとえば、Seta mik. 「犬が吠える」 に対して Seta ekasi e-mik. は「犬が老人に吠える」となるのです。mik 「〜が吠える」、e-mik 「〜が〜に吠える」。この e- が問題の接頭辞です。

この接頭辞は動詞のみならず数詞にもつくんです。それが数詞と動詞の第二の類似点です。

たとえば、アイヌ語の 30 を示す数詞の「算術的構造」は、20x2-10 で、言葉で言えば、「あと10で2つの20」ということですが、数連体詞が applicative を取って、この構造を作り上げています。

wan-pe e-tu hot 30

wan-pe は wan 「10」の名詞形です。数連体詞 wan が形式名詞 -pe を修飾していると考えてもけっこうです。tu hot は「 2つの20」、すなわち「40」でこれも名詞的形式、 e- が applicative です。tu 「2つの〜」、 e-tu 「〜で2つの〜」。wan-pe e-tu hot 「(あと)10で2つの20」。

数詞に applicative の接頭辞がついた例をさらにあげてみましょう。

村の神が、天の神への長い長いメッセージを使者に語るという箇所で、

sonko emko e-iwan sonko 5つ半の伝言

という句がでてきます。sonko emko 「伝言半分」、iwan 「6つの〜」、e-iwan 「〜で6つの〜」。すなわち「伝言半分で6つの伝言」。それで「5つ半の伝言」という意味になります。この句の算術的構造は 6-1/2 です。おそらく、村の神から天の神へのメッセージは iwan sonko 「6つの伝言」で完全なものになるのだと思います。6 はアイヌ語の sacred number です。足りない「伝言半分」(実は完全な口上の12分の1)は、使者の器量に任せられたということなのでしょうか。

シャチがオタスッの村人に一頭半の鯨を贈与するという箇所では、

humpe arke e-tu humpe 1頭半の鯨

という句がでてきます。humpe arke 「鯨の半身(片側)」、e-tu 「〜で2つの〜」。humpe arke e-tu humpe 「鯨半身で2頭の鯨」、すなわち「1頭半の鯨」。この句の算術的構造は 2-1/2。

ところが、一見これらと同じ構造に見えるけれど、それとは異なった算術的構造があることに、気づきました。金成マツのユーカラを翻訳しているとき見つけたものです。

突然襲われた主人公(わたし)が、振り下ろされる刀から逃れ、駆け下る場面です。

tekchikirpo e-ine chikir an-e-cararse 手を足にして都合4本の足でわたしは駆け下る

四つん這いになって駆け下った、ということです。tek-chikir-po 「手・足・指小辞」。上ではとりあえず「手を足にして」と訳しましたが、純然たる合成名詞で、「足っこになる手」「足っことして用いられる手」というほどの意味と解せられます。次の e-ine の客語となっています。つまり、tek-chikir-po は ine 「4つの〜」、e-ine 「〜で4つの〜」の腕「〜(で)」に捉えられています。この句は tekchikirpo つまり手が 2本で、本来の chikir「足」が2本あることを前提にしています。「tekchikirpo 2本で4本の chikir」ということなのです。上っ面を眺めれば、上の3つの例にならって 4-2 という算術的構造と思えるのですが、そうでないのは明らかです。生成文法ふうにいうと、表層構造は同じだが、深層構造は異なるということになるのですがいかがでしょう。

tojta 「畑を耕す」という動詞の意味の拡張

十勝の故沢井トメノから、次のような文を聞いたことがある。

Toj opusi wa jasai opitta kuetojta okere.
畑を耕して、野菜(の種)を蒔き終えた。

opusi は kuopusi の言い誤りであろう。

tojta という一項動詞は、toj-ta 「土を掘って収穫する」というのが本来の意味であると思う。

ta には、次のような用例がある。

turep-ta 「ウバユリの根を掘り出す」
aha-ta 「ツチマメを採集する」
sit-ta-p 「ツチマメを採集する道具」

aha-ta と sit-ta-p は旭川の故杉村京子から教えていただいたもの。

おもしろい例として、wakka-ta 「(回りに囲いをして水位を上げた湧き水から手桶などを用いて)水を汲み出す」というものもある。

toj-ta は、本来 toj opusi すなわち「土を掘る」「土を起こす」という意味だったのでなかろうか。それが沢井トメノの例では補充接頭辞 e- を取って、播種の意味に用いられている。

「紙」に当たる単語は、近文の故砂沢クラによれば kampi であるが、kampi は、「紙」「本」「手紙」の意味で用いられた。日本語の「雁皮(がんぴ)」(雁皮紙、シラカバ、マカンバ、ダケカンバ)の借用語と思われる。もと雁皮のじん皮を原料とする手漉き紙を意味する「雁皮」が、アイヌにおいて紙一般に、さらに書籍や手紙の意味で用いられるようになったが、このような意味の拡張を思い出した。

popke は他動詞語根か?

金成マツのユーカラにはたびたび eshipopke という大変おもしろい動詞が出てくる。ただし述語としての用例はなく、

aeshipopkep わたしの着物
eeshipopkep おまえの着物
Poiyaumbe eshipopkep ポイヤウンベの着物

という名詞句の中に現れる。これらの名詞句は mi 「〜が〜を着る」とか uina 「〜が〜を取る」などの二項動詞の目的語になっている。

e-shi-popke-p は、「〜がそれもて自分を暖める物」という意味だと思われる。だから、a-e-shi-popke-p は「わたしがそれもて自分を暖める物」、e-e-shi-popke-p は「おまえがそれもて自分を暖める物」、Poiyaumbe e-shi-popke-p は「ポイヤウンベがそれもて自分を暖める物」というように解釈される。

しかし、popke は、普通、「〜が暖かい」という意味の自動詞語根だと考えられている。もっともその例としてあげられるのは、僕の知る限り、shir-popke 「大気が暖かい」しかないけれど。だが、上の a-e-shi-popke-p などでは、再帰接頭辞 shi- が popke の目的語に相当するものと考える他ないから、popke は「〜が〜を暖める」という意味の他動詞語根として機能していることになる。つまり、popke には、

「〜が暖かい」(自動詞語根)
「〜が〜を暖める」(他動詞語根)

という二つの意味があることになる。

1つの動詞語根が自動詞語根にもなり、他動詞語根にもなるというのは、アイヌ語では、極めてまれである。roshki が ash「〜が立つ」の複数形でもあり、ash-i「〜が〜を立てる」の複数形でもある、というほかにないのではないか。但し他動詞語根にもなり、複他動詞語根にもなる o というものもある。それぞれ、oma「〜が〜にある・入っている」とoma-re「〜が〜を〜に入れる」の複数形と考えられている。ちなみに oma-re の複数形 o は、唯一の複他動詞語根である。複他動詞語根はこれ以外にはない。

これらの動詞は、いずれも複数形で形の違いがなくなるものの、単数形では異なる形で示されている(ash/roski, ashi/roski, oma/o, omare/o)。したがって、単複の区別のない popke の場合と同列にはあつかえない。

あくまで popke が「〜が暖かい」という意味の自動詞語根だと考えるなら、「〜が〜を暖める」という意味は、popke が使役接尾辞をとった popke-re のような二項動詞で示されるべきである。そこで、「わたしの着物」は a-e-shi-popke-re-p のようになることが期待される。しかし a-e-shi-popke-p などは金成の書き誤りとされないだけの用例がある。使役接尾辞を伴う用例はない。これをどう考えてよいのか、まだわからないでいる。

主語に相当するものの抱合

近藤由紀さんが今翻訳している tokanto tokanto というサケヘのついた神謡(CM19.4)の冒頭近くに次のような文がありました。アイヌ語の抱合の可能性を考える上で重要な例だと思うので、メモを作っておこうと思いました。

shiripirikawa shikush kara ash aine
天気が良いときには、日光にさらされ

shikush chire ashkane okai ash
その日ざしでじりじりと焼かれながら過ごしていた。

抱合というのは、動詞が、目的語などに相当する本来は自立的な名詞を自己の中に取り込んで、新たな複合動詞を形成する現象を指します。たとえば、

nikeure an nitokpa an kane Iki an aine
木を削り、木を刻んでいるうちに(CM20)

にある ni-keure an 「わたしは木を削る」、ni-tokpa an 「わたしは木を刻む」(いずれも木彫をしている情景)は、それぞれ二項動詞(他動詞)の keure「〜が〜を削る」と tokpa「〜が〜を刻む」が、目的語に相当する名詞 ni 「木」を抱合して、一項動詞(自動詞)になったものです。それは、一項動詞に付く一人称の人称接辞 an がこれらの動詞に付いていることから明らかです。つまり、ni-keure, ni-tokpa が人称語幹になっているのです。

このように、抱合される名詞は多くは目的語に相当するものなのですが、主語に相当するものが抱合されることもあります。たとえば次のような例がそれに当たるのではないかと思われるのです。

ne inumpe ... koi yanke
その炉ぶち木は波に打ち上げられた(『アイヌ神謡集』)

yanke 「〜が〜を陸に揚げる」の主語に相当するものは koi 「波」ですが、それが抱合されて koi-yanke 「波が〜を陸に揚げる」という一項動詞ができています。この一項動詞の主語は、yanke の目的語に相当するものである ne inumpe 「その炉ぶち木」なのです。日本語に翻訳するときは koi-yanke 「〜が波によって陸に打ち上げられる」などのようにするといいと思います。

また、次の例は、rera 「風」が sujesuje 「〜が〜を揺さぶる」に抱合されていると見られます

Tanto rera jupke wa nitek rera sujesuje sir okaj.
今日は風が強く、木の枝がそよいでいる。(沢井トメノ)

但しこれらの例は yanke が koi を、また、sujesuje が rera を抱合しているとみなしうる確実な例ではありません。珍しい語順(目的語相当語 + 主語相当語 + 動詞)からそう推定できるというに過ぎません。つまり、主語相当要素が動詞に接合していると見ることもできるということです。その点で、近藤さんの作りつつあるテキストの例は、主語に相当する名詞が抱合されうることを確実に示しています。

すなわち、shikush chire ash 「わたしは日ざしでじりじりと焼かれる」では二項動詞 chire 「〜が〜を枯らす」が主語に相当する名詞 shikush 「日ざし」を抱合して一項動詞になっています(shikush-chire 「日ざしが〜を枯らす」、すなわち「〜が日ざしを受けて枯れる」)。それはこの動詞に一項動詞の人称(この場合一人称)を示す ash が付いていることから明らかです。shikush-chire が人称語幹になっているのです。

また、その上の行の shikush kara ash 「わたしは日ざしにさらされる」も同じ例となるかもしれません。kar (= kara) は「〜が〜(照射)を受ける(わたしが日ざしを受ける)」あるいは「〜が〜を照射する(日ざしがわたしを照射する)」という二項動詞ですどちらの意味かまだ確定するだけの証拠がありません。後者であれば shikush-kar は主語に相当するものの抱合の例になります。

「目次」を意味する aekirusi の由来

知里幸恵の『アイヌ神謡集』(1923年)では「目次」に Aekirushi というアイヌ語が当てられています.三年前『知里真志保フィールドノート』第3冊を編集したとき,凡例にその由来と思われることを書きましたが,余り読まれていないようなのでここに手を加えて繰り返します.不必要なことと思わないでもないのですが,自説に強い執着を持っているので書くのが抑えきれないのです.恐縮.

Aekirushi という単語は,『アイヌ神謡集』発刊の準備をしているさなか,金田一京助知里幸恵との協議により作られたものと推定されます.

おそらく,西洋で「目次」にあたる単語が「内容」とか「中身」という意味をもっていることを金田一が示唆し,それにならって幸恵が作ったものでしょう.

a-e-kir-us-i 「人(が)・食べる・骨髄(が)・ある・処」

骨髄 kir は大変好まれた食べ物でした.骨を割って,先を細かに削り起こした細い棒を中に差し込んで,その削り起こしに骨髄を絡めて取り出しました.kir は骨の「中身」なのです.目次は本の「中身」がある箇所を示すものです.

ですから、もっと簡単に kir-us-i 「骨髄(が)・ある・処」でもよかったのでしょうが,幸恵は丁寧に a-e 「人(が)・食べる」という連体修飾句を kir に付けています.したがって、kir が「骨髄」を意味する名詞であることはほとんど疑いえません.

昨年亡くなった片山龍峯氏の

「人・〜で・〜に覚えがある・所」

という解釈は全く受け入れられません.kir-us を「〜に覚えがある」と理解しているようですが,kir に「覚え」という意味はありません.もしそんな意味があるとすれば,なるほど kir-us-i は「覚え(が)・ある・処」という意味になります.では不定人称接頭辞 a- はいかなる動詞に付いているのでしょう.二項動詞 us 「〜が〜にある」の主語に相当するものは kir で,目的語に相当するものは被修飾要素の i 「処」です.ですから kir-us-i は「覚え(が)・ある・処」という意味になるのですが,この形式ではもはや不定人称接頭辞主格形 a- (「人」ととりあえず訳す)のような名詞的接頭辞を取ることはできません.us の名詞項をとらえる二本の腕(「〜」で示す)が kir 「骨髄」と i 「処」とでもう塞がっているからです.僕の解釈では,a- は二項動詞 e 「〜が〜を食べる」の主語を取る腕につかまえられています.kir はその目的語に相当するものですから,目的語を取る腕につかまえられています.そこで a-e-kir 「人が食べる骨髄」と解釈するほかないのです.それにしても片山氏のように e を動詞ではなく補充接頭辞と解釈すれば,新たな腕(「〜で」)は空をつかむしかありません.

イトウ(魚)の名を持つ川

今晩,家内がコンサートに行ってしまったので「酒庵きらく」に飲みに行ってしまった.そこでJRの車内広報誌に記事を書いている女性と出会って,幸せな夕べを送ることができた.その女性は昨年,イトウの釣り師として高名な稚内の外科医のことを記事にした.僕はその外科医に chirai 「イトウ」が出てくるアイヌ語地名を永田方正『北海道蝦夷語地名解』からリストアップしてさし上げたことがある.そんなことから,またイトウのいる川の名を眺めたくなった.TEXのソースファイルで読みにくいと思ういますが,是非一緒に眺めてください.(言うまでもないことと思いますが,これをご発表用のデータとしてあつかう場合は makomanajunkur にお断り願います)

\item[chirai {\scriptsize 名詞}] イトウ(魚).\par
chirai hattara イトウの淵. 胆振国山越郡(地名解 189).胆振国千歳郡アンガリ沼(地名解 249).\par
chirai kari pet イトウを捕る川. 釧路国厚岸郡ペカンベ川筋(地名解 395).\par
chirai mak un pet イトウのマクンペッ. 後志国余市郡余市川筋(地名解 115).\par
chirai mem イトウの滝壺.ここに小さな滝があって,滝壺が非常に深い.チライが多い.このように永田は説明しているが,mem は普通,湧き水による水溜まりを意味する. 胆振国山越郡(地名解 188).\par
chirai nukar'ushi イトウを見る処. 石狩国上川郡(地名解 67).\par
chirai och-i イトウがいる処. 石狩国札幌郡茨戸川筋(地名解 58). 胆振国山越郡 (地名解 194).\par
chirai ot 〜にイトウがいる. 石狩国樺戸郡(地名解 74).北見国常呂郡サロマペ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 508).北見国紋別郡湧別川筋(地名解 502).北見国紋別郡シヨーコ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 500).\par
chirai ot nai チライのいる川. 十勝国中川郡シユーオルペ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 341).胆振国千歳郡マオイ沼(地名解 250).天塩国苫前郡チ{\footnotesize ユ}{\footnotesize ク}ペ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 449).\par
chirai ot pet イトウのいる川. 胆振国虻田郡シリペ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 202).\par
chirai pet イトウの川. 石狩国上川郡オサラペ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 68).胆振国虻田郡シリペ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 204).長さ四,五尺のイトウがいるという.北見国宗谷郡エレ{\footnotesize ク}ト{\footnotesize ウ}{\footnotesize ツ}ペ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 476).\par
chirai pon pet イトウの小さな川. 天塩国天塩郡(地名解 452).\par
chirai un nai イトウがいる川. 石狩国上川郡(地名解 64).\par
chirai un pet イトウがいる川. 石狩国厚田郡(地名解 102).\par
chirai un pon t\=o pet イトウのいる沼の川. 石狩国石狩郡当別川筋(地名解 97).\par
chirai ush nai イトウのいる川. 天塩国留萌郡オピラアシュペ{\footnotesize ツ}(地名解 442).\par
chirai ush t\=o イトウのいる沼. 胆振国勇払郡勇払川筋(地名解 243).\par
chirai wattara イトウの淵. 根室国標津郡シペ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 416).\par
panke chirai ot nai \kana{下}{しも}の,チライのいる川. 天塩国苫前郡コタ{\footnotesize ム}ペ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 448).\par
penke chirai ochi \kana{上}{かみ}の,チライのいる処.oci $\leftarrow$ ot-i. 石狩国札幌郡札幌川筋(地名解 52).\par
penke chirai ot nai \kana{上}{かみ}の,チライがいる川. 天塩国苫前郡コタ{\footnotesize ム}ペ{\footnotesize ツ}川筋(地名解 448).

再帰接頭辞 si- の逸脱した用例

「まことに優れている」ということを意味し、もっぱら連体修飾語として用い
られる sisak という一項動詞がある。

shisak chiresu またとない養い(きわめて行き届いた養育)
shisak rametok またとない勇者
shisak tonoto またとない(美)酒

などのように用いられる。金田一は上の shisak chiresu
という句を次のように説明している(ユーカラ集1 p.51)。

shi-「真」 sak「無い」は、「めったにない、たぐいなき、世に無き
」の意。この世に類なき善美を尽くした養育をわたしにしてくれてわ
たしが育っていた。

ところが、sak は「〜には〜がない」あるいは「〜は〜を欠く」という意味の、欠如しているものを指す名詞的形式を目的語とする二項動詞である。したがって、si-「真」 を sak を修飾する副詞的要素であると考えてはならない。そうではなく、この二項動詞の目的語に相当するものと見るべきである。しかし、そのように考えると「真を欠く養育」という意味となり窮する。これでは意味をなさない。そこで、この si- を si-apka「真の雄鹿」の si- ではなく、再帰接頭辞の si- 「自分自身」(例 si-turi 「〜が伸びる(〜が自分自身を伸ばす)」、turi 「〜が〜を伸ばす」) と考えてみる。そうしても「自分自身を欠く養育(つまり「養育を欠く養育」)」となり、やはり意味をなさない。しかし、この語を再帰接頭辞 si- の逸脱した用法を示す例と考えてはどうであろう。つまり、主語に相当する要素(shisak chiresu では主語に相当する要素が被修飾語となっている)と同一指示のものではなくて、主語に相当する要素(被修飾語)が指示しているものとは少しずれた、「主語に相当する要素(被修飾語)が指示しているものに類似したもの」を指示していると考えるのである。このように考えて初めて si-sak ciresu が「類似した養育を欠く養育」すなわち「たぐいなき養育」という意味であることが説明できる。