再帰接頭辞 si- の逸脱した用例

「まことに優れている」ということを意味し、もっぱら連体修飾語として用い
られる sisak という一項動詞がある。

shisak chiresu またとない養い(きわめて行き届いた養育)
shisak rametok またとない勇者
shisak tonoto またとない(美)酒

などのように用いられる。金田一は上の shisak chiresu
という句を次のように説明している(ユーカラ集1 p.51)。

shi-「真」 sak「無い」は、「めったにない、たぐいなき、世に無き
」の意。この世に類なき善美を尽くした養育をわたしにしてくれてわ
たしが育っていた。

ところが、sak は「〜には〜がない」あるいは「〜は〜を欠く」という意味の、欠如しているものを指す名詞的形式を目的語とする二項動詞である。したがって、si-「真」 を sak を修飾する副詞的要素であると考えてはならない。そうではなく、この二項動詞の目的語に相当するものと見るべきである。しかし、そのように考えると「真を欠く養育」という意味となり窮する。これでは意味をなさない。そこで、この si- を si-apka「真の雄鹿」の si- ではなく、再帰接頭辞の si- 「自分自身」(例 si-turi 「〜が伸びる(〜が自分自身を伸ばす)」、turi 「〜が〜を伸ばす」) と考えてみる。そうしても「自分自身を欠く養育(つまり「養育を欠く養育」)」となり、やはり意味をなさない。しかし、この語を再帰接頭辞 si- の逸脱した用法を示す例と考えてはどうであろう。つまり、主語に相当する要素(shisak chiresu では主語に相当する要素が被修飾語となっている)と同一指示のものではなくて、主語に相当する要素(被修飾語)が指示しているものとは少しずれた、「主語に相当する要素(被修飾語)が指示しているものに類似したもの」を指示していると考えるのである。このように考えて初めて si-sak ciresu が「類似した養育を欠く養育」すなわち「たぐいなき養育」という意味であることが説明できる。