おらのハポ

誤った思いこみが 27 年も続いたということを述べて,同学の諸氏の参考としたい(僕は猛烈に思いこみの激しい人間だから,余り参考にならないかもしれない).

1979年 7 月 17 日(僕が 25 歳のとき),十勝川支流利別川河畔の町,本別にて農家をされていた沢井トメノ氏から,氏の幼年期を中心とする自叙伝(生い立ちの記)をアイヌ語でうかがう機会があった(約 17 分).その冒頭近くに,次のような句があった.なお,これはいわゆる口承文芸ではない.また,「 ' 」は喉音音素と呼ばれるものを示す記号だ.アクセント符号は技術的な制約のためつけていない.

'enon kaj ponno 'ene p 'ene 'esonoman kor 'orano ``Hapo, hapo'' 'ari kuhawki kan hapo 'osi kuhojupu wa kuparaparak kan hapo kunospa.

(母さんが私を置いて)どこかへほんの少し出かけても,それで,「母さん,母さん」と言いながら,母さんの後を走って,泣きながら追いかけた.

問題は,今「それで」と訳した 'orano である(アクセントは第一音節).「それから」と訳してもかまわない.僕は 27 年前の夏から 2006 年 11 月 28 日の今夜に至るまで,これを 'or wano 「それで」「それから」(無アクセント.談話のとぎれを埋める要素)の短縮形だと信じて疑わなかった.このお話はことに僕の好きな話で,学生や一般の方に幾度もお聞かせし,内容を解説してきた.毎度そう説明してきた.しかるに,さっき風呂からあがって涼んでいるとき,ゆくりなくもこれが日本語の「おらの」(私の)ではないかと思いついた.そう思いつくと,それが間違いのない解釈としか思えなくなった.まだあやふやだけど,証拠としては二点あげられる.

まず,確認する必要があるけれど,'or wano の短縮形として第一音節にアクセントのある 'orano が現れる他の例は思いつかない.二つ目は傍証というに近いけれど,「私の母さん」を意味する kuhapo という形が沢井さんのアイヌ語に認められる.

これだけしか証拠と言えるものはないけれど,「おらのハポ,ハポ」としか,今は思えなくなった.その当否はともかく,なぜこの可能性に 27 年も気づかなかったのだろうか.不思議でならない.

また,卑しいことかと思うけれど,これを人から指摘されたら,ずいぶん無念な思いがしたであろう,と思わずにはいられなかった.自分で自分の誤りに気づいてほっとしている.くだらないことだけれど書き添えておく.

uwekari という副詞について

せっかく地元札幌で言語学会があったのに,急を要する地名アイヌ語辞典の編纂に使うプログラムを突貫工事で作らねばならなかったので参加できませんでした.残念至極です.

疲れた頭には,去年の三月に出した『知里真志保フィールドノート(4)』(北海道教育委員会)の1.4ik, Urashpetun mat hepashi heperai pet otta onkami が慰藉になるので拾い読みをしていたら,最も好きな箇所に自然目が止まった.

323 pon menoko upsoroho akorawoshma.

324 Pirka mouri numachi apita wa uwekari kor

325 pirka pon totto atempatempa wa inu-an ko

323 娘の夜具の中に潜り込みました.

324 美しい肌着の胸紐をほどき

325 美しい乳房(ちぶさ)をもみさすってみると

皆さんには 324 が分かりますか.昨年の春,原稿締め切りが迫っていた頃,uwekari kor の意味が最後まで分からないので,この箇所を訳し飛ばさざるをえなかった.uwekari が uwekarpa 「集まる」の単数形だということは誰にだってわかる.いったい何が集まるのだろうか.uwekari kor 「(わたしの心と娘の心とが)集まって」だろうか.無理だ.そもそも「集まる」という行為が単数形で示されるというのは妙な話だ.頼みの金田一先生は,たとえば

pon-ram orwa | uwekari | abui-sutu | uchiu ninkar | un wa

幼少から | 相めぐって | 我が耳たぶに | 継ぎ目なき耳輪が | はまって (ユ集V p.38)

のように訳されているが,これでは何のことだかわからない.

先ほど,ふと,ふだんあまり見ない田村先生の辞典を引いてみる気になった.

uwekari [自動詞・副詞] 両方から(自動詞の例はないようだ−切替)

uwekari arki (二人の人が)両方から来る(ばったり行き会う) (金田一の「相めぐって」を思い起こせ−切替)

nea pinay uwekari soske hine その谷の崖が両方から崩れて

uwekari uwekari am us hemanta kikiri 左右両側にたくさんのつめが生えているへんな虫(ムカデ)

ようやく,蒙が啓かれたました.uwekari kor pirka pon totto を uwekari kor「集まって」と pirka pon totto 「美しい小さな乳房」に分けて,uwekari を動詞と,kor を 接続助詞と考えたのが誤りであった.意外にも,totto 「乳房」は人称形(所属形)ではなく概念形(基本形)であった.なにしろカワウソの娘さんと乳房の取りかえっこをしたほどの玉だ.乳房だって「譲渡可能」なのだ.だから、所有の動詞 kor に修飾されているのだ.kor は,接続助詞ではなく二項動詞「〜が〜を持っている」で,pirka pon totto 「美しい小さな乳房」を連体修飾している.kor「持っている」 の主語はもちろん pon menoko 「(その)娘」(乳房の所有者).したがって,uwekari kor pirka pon totto は,「(その娘が)左右に持っている美しい小さな乳房」の意味に相違ない.金田一先生の上の引用文の「相めぐって」とあるのも「幼少から我が耳たぶに継ぎ目なき耳輪が左右にはまって」ということと解せられる。

田村先生には深い感謝の念を覚える.また,金田一先生の「相めぐって」も全くの誤りとはいえないことも知り,尊敬の念を新たにしている.uchiu ninkar「継ぎ目なしの耳輪」の uwekari は,左右の耳たぶに耳輪がついているということだった.

先ほど触れたように「集まる」という意味の自動詞は uwekarpa である.これは単数形の欠如した動詞とみるべきであろう.形の上からは,uwekari が単数形とみえるけれど,これは動詞としての働きが失われている.「左右で」「左右に」「左右から」などを意味する副詞になっている.副詞は動詞のすがれたものなのか.

分からなかったことが分かるというのは本当にうれしいことだ.徹夜続きの疲れが吹っ飛んだ.これでようやく,片方の乳房(ちぶさ)が銀と金のカワウソの毛でおおわれている美しい娘を我が禁断の妄想世界で心おきなく愛することができる.また、totto に pon がついているのはいつまでも僕を悩ます.僕の友人の大阪の吉村というやつがかつて「巨乳は下品だ」と慨嘆したことがある.僕も満腔の同意の念を覚える.この箇所、pon「小さな」は落とせない.

念のため訳し直す。

323 pon menoko upsoroho akorawoshma.

324 Pirka mouri numachi apita wa uwekari kor

325 pirka pon totto atempatempa wa inu-an ko

323 娘の夜具の中に潜り込みました.

324 美しい肌着の胸紐をほどき、(娘が)左右に有する

325 美しい小さな乳房(ちぶさ)をもみさすってみると

なお一言いうと、最後の inu-an ko を「(もみさすって)みると」と素っ気なく訳したが、われながら全然もの足りない。inu というのは、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、加えて五感以外の感覚、すなわち第六感、つまり、視覚以外のすべての感覚および超感覚で得られる知覚を指す日本語にはない言葉だ。だから(もみさすりつつ)視覚以外のすべての感覚を動員して固い乳房(ちぶさ)の娘の反応をうかがったのだ(解説するときりがないけれど tempatempa というのは「手探りする」という意味の動詞)。電気のない時代、真の闇。「夜具」と訳した upsoroho、説明しだすとこれもきりがない。無知は悲しいものと知れ。

敢えて言う。昨今のメディアは、視覚と聴覚への訴えしかできまい。また、デジタル化もこの二領域でしか暴威を振るえまい。商品化なんざそんなもんさ。ざまあみろ。人間は、そんなんじゃ捉えられないんだ。(2010 januaro 11 改稿)

樹木を意味する二つの単語

友人の高橋靖以君がいま翻訳しているアイヌの物語に poro chikuni hokush 「大きなチクニが倒れる」という句がありました.

僕は以前から,というよりも,この30年間ずっと ni と chikuni の違いが分からなかった.旭川の砂沢クラ氏に尋ねてもどちらも「樹木」であるような印象しか自分の頭の中に作れなかった.しかるに,けさ永田方正の『北海道蝦夷語地名解』を見ていると,

Chikuni 枯木 胆振国勇払郡ムカ{\footnotesize プ}川筋(地名解 240)

という記述に出会った.周知のように永田のこの書物には「雇い質したるアイヌ」の述べたことがふんだんに載っており,それがこの書物のもっとも価値あるところであるが,これもそういった例に違いない.残念なことに Chikuni という地名はこの一例のみで,また,chikuni を構成要素とする複合名詞的地名は不思議なことに一例もない.しかし,燃料としての樹木は主に倒れ木と流木である.ぼくは,樹木の伐採に関わる民族誌的な話は聴いたことがない.十勝の沢井トメノ氏の母,清川ネウサルモンの薪集めは二丁の手斧と鋸を用いて倒れ木から薪を取るというものであった.だから chikuni は燃料として位置づけられていたのかもしれない。

地名解のこの記述は実に貴重だ.ni が「枯れていない樹木」、chikuni が「枯れ木」(燃料となる)というように意味を分担していたのかもしれない。

父の葬儀に当たっての喪主(わたし)からの挨拶と父の詩一編

父弘雄永眠のおりは、皆様より深い哀悼のお気持ちをお寄せいただき、感謝の言葉もありません。父は医伯院慈海弘遠大居士という法名を授かり、また、本日は四十九日の法要を営むことができました。これも皆様のおかげと存じ、母、姉、弟とともに厚くお礼申し上げます。

6月25日の告別式でお話しいたしました父の思い出を今一度ここに記し、あわせて父の書いた詩の中から、「根雪」と題するいかにも父らしい作品になっていると思われるものを引いてご披露いたしたく存じます。お読みいただければ幸いです。

2006年7月29日       


父は去る水曜日、6月21日の朝、死にました。ゴミを出して、新聞を取り込み、日記帳に一面記事の抄録を記した後、再びベットに戻り、しばらくして軽いうめき声が聞こえましたので姉が様子を見に行くと、すでに事切れておりました。心筋梗塞による死亡と診断されましたが、苦悶した跡の見られない安らかな死に顔でした。享年81歳です。

父は大正13年、木更津から\kana{小櫃}{おびつ}川を遡ること十数キロの横田という村に小学校の教師の次男として生まれました。敗戦の年の春、旧制山口高等学校を卒業し、千葉医科大学に入学しました。卒業後、北海道に渡り、北大の応用電気研究所で博士論文を書きましたが、学問を究めるといった肌合いではなく、実験に使う野良猫をつかまえるのがうまくて、猫を入れた箱を自転車の荷台にくくりつけて通学したという武勇伝を残して札幌をあとにし、\kana{遠軽}{えんがる}というオホーツク沿岸地方の小さな町の病院に勤務することになりました。以来ずっと臨床医として生きて参りました。

こうして遠軽はわたしたちきょうだいの故郷になったのですが、父はその町で内科医として活躍しました。患者さんのみならず、看護婦さん始め病院の職員の方々にも大変人気のある医者であったことは子供心にも分かりました。わたしが長じて一人札幌に住むようになってから、かつての患者として、また職員として父を知る方々に会う機会が何度かありました。病弱だった幼児期、父の診察をたびたび受け、それがきっかけとなって医者を志すようになったという方もいらっしゃいましたし、父に国家試験受験の指導をしてもらい、事務職員から臨床検査技師に転じたという方にもお会いしたことがあります。その方はカンニングのやり方まで教わったとおっしゃっておりました。このように父はひょうきんな一面のある人でした。

昭和39年に千葉の両親(すなわちわたしどもの祖父母)の懇望を入れて、本人の言う十数年におよぶ北海道放浪時代を切り上げて、この検見川で開業いたしました。折から高度経済成長の波が潮のように押し寄せ、それとともに切替医院も繁盛いたしました。まだ救急医療体制の整わない時代でしたから、深夜の2時、3時まで、また早朝の4時近くに患者さんがみえられることはまれではなく、父もそれによく応えて休むことなく診療を続けました。働き詰めに働いた人だと思います。

こうして一介の医者として生きて来たわけでありますが、文を綴ったり詩を作ったり、俳句を詠んだりすることを大変好みました。道楽といえばそれきりです。作家では太宰治を尊敬していたようです。父の書斎には、詩文を書き散らした紙が山のように残っています。が、父はそれらを世に問うということはしませんでした。人に読まれてこそ文を作る喜びもあると思うのですが、それらの紙片をくず同然に扱い、整理することさえしませんでした。ただ、年賀状に俳句を刷らせ、札幌のわたし宛にごく頻繁に詩や俳句を記した葉書を送ってくれたことが発表と言えば言えなくもないことでした。

また、遠軽時代、まだ幼かった私たちを寝かせつけるために、自分で作り上げた冒険物語を語ってくれたり、怪談をして私たちをこわがらせたり、児童文学を読んで聞かせてくれました。

このような純粋な文芸愛好家たることが父のもう一つの顔であったことをご存じない方々が多いと思いますので、お伝えした次第です。

以上、簡単ではありますが、父の思い出をいくつかお話しいたしました。

これからは残された母と父の位牌を守っていく所存です。皆様の変わらぬご厚誼をお願いするとともに、ご健勝をお祈り申し上げます。



根雪

君の青春の遍歴を、私は全く知らない。只自分の青春を、がむしやらに突進したであらうことは、君の雰囲気から想像し得る。君は人生の出発に際して、夢と希望を高らかに掲げて歩み出したに違いない。昭和20年代、戦後の混乱の場が、君の青春の舞台になった。

然し、初めて、君が私の前に姿を現した場所は、北国の小さな町の白い壁の病院の一室であった。青春の栄光が無惨に崩れて、君は一人のアルコール中毒患者として、私の前にあった。

君の並々ならぬ力量と素質を感じとった私は、次の様な詩を書き留めて、君に送った事を忘れない。昭和36年の初冬、雪が根雪になる晩であった。


灰色の空より
太陽の光りとゞかぬ大地に
根雪となる 粉雪 降りしきり
酒神に召されし 若き魂の嘆きよ


 あゝ、酒よ 酒の酔いよ
 酔いが、脳髄に 沁みて
 空間は 全宇宙となり
 幻は 実在となり 己は全き者となり
 虫どもが這い 汚れし声が聞こえ
 その中に 転び伏す
 幻視と幻聴と 邪宗の美よ
 彼方へ 第四次元の世界へ 全きの自由へ
 完全な虚空へ。
 悲しき別れが 君を捕らえた時
 かすかに聴こえる。
 「行くのを止めよ。止めよ。」
 子の声が、君の耳に聞こえて
 妻の泣く声が聞こえて
 君は 土器を 投げ棄てた
 酒神が去って、君は睡った。
 「今宵、根雪になるだろう。」と君は
 つぶやいて、ねむった。


 君には力がある。
 君には愛がある。
 君には情熱がある。
 君には自由がある。
 君には雄叫びがある。


 君はその力の故に 酒を呑んだ。
 君はその愛の故に 酒を呑んだ。
 君はその情熱の故に 酒を呑んだ。
 君はその自由の故に 酒を呑んだ。
 君はその雄叫びの故に 酒を呑んだ。


白い壁の病室で、若い医師が、君を笑ってこう言った。


 「酒神が 君を捕らえて離さない。
 君の力と愛と情熱と自由と雄叫びが
 酒神にのみ捧げられた時
 君の力と愛と情熱と自由と雄叫びは、
 酒神の餌食となって、
 君はも抜けの殻となる 木乃伊になる。」


医者は嘲笑って 白い壁の病室から 灰色の夜を眺めた。
雪は根雪になるだろう。


灰色の空より
太陽の わずかな光 洩れて
根雪となりし 朝の明るさ
白壁の病舎の 一隅に
新生の息吹を聞きぬ。


『本間武男画集 灰色の旅情』より

アイヌ語の「沢」を意味する naj の語源

金成マツが書き残してくれたユーカラの一節に炉を海にたとえた次のようなものがあります。「沖」とは炉のまん中のことで、陸(おか)とは炉の縁のことです。*1

rep-o-usat 沖の火種を
ya-o-raye 陸にやり
ya-o-usat 陸の火種を
rep-o-raye 沖にやり
tu utursama ときどきを
re utursama あいだあいだを
otke kane 突き刺しながら
naipa kane ならしながら

訳は金田一先生のものを参照して作りました。火を掻き立てながらとつおいつ思案する情景です。

ところで最後の naipa (= najpa) について金田一先生はこのページの脚注で面白いことを書いています。

naipa 「すじを引く」(naye (= naje) の複数形)火箸で炉の灰の中へすじをつけたりした。因みに、神が地面へ指ですじを引いた、naye したのがすなわち nai (= naj)。

ささやかだけど面白い語源説話だと思いました。「川」を意味する単語に pet と naj があることはよく知られていますが、ぼくは pet が「水の流れ」で、naj がその水を流す樋(とい)にあたるものではないかと考えています。この説話はそれと矛盾していないだけでなく、積極的に支持するものでないかと思います。

なお「複数形」についてですが、上の文では主語が一人の人間です。でも、動作が繰り返されたり、目的語が複数の観念を示しているとき(ここでは直接言われてはいないけれど炉の灰に引かれた多くのすじ)、述語の動詞は、もし複数形をもっている動詞ならば、複数形となります。

アイヌ語の地名を守れ

千歳市千歳川筋に「桂木(かつらぎ)」という地名があります.14,5年前,そこに住んでいた小田イトさん,白沢ナベさんという二人のアイヌのおばあさんに,桂木の元の名は「ランコシ」と教わりました.もっとも,本来の音(おん)は Rankowsi ランコウシ(ランコーシではない)で,Ranko-us-i 「カツラの生えている処」という意味だったそうです.戦後になって書かれた名取武光先生の民族学の論文にも「ランコシ」が出てきます.今でもアイヌ系の人が多く住む処です.いつから「桂木」に変わったのか知りませんが,残念なことをしたものです.ランコシという美しい地名がなくなってしまったことが惜しまれます.

地名は歴史の碑(いしぶみ)だと思うのです.アイヌの歴史をそんなに抹殺したいのでしょうか.

十勝の利別川筋に「勇足」という地名があります.「ゆうたり」といいます.おそらくそれはかつて「いさむたり」と読まれていたのでしょう.本来のアイヌ語は E-san pitar エサンピタラ であって,たぶん「川下の方へ伸びて突き出ている砂利の洲」という意味だったと思います.勇足は本来の地名の音(おん)も意味も失われてしまった例です.

千歳は Si-kot シーコッ 「大きな窪地」と呼ばれていましたが,どうしたわけか「千歳」というお目出度い名前に変えられてしまいました.さいわいSi-kot は湖の名(支笏湖)として残っていますが,千歳アイヌがかつて Si-kot un kur シーコッウンクル「シーコッの人」と呼ばれていたことから想像すると,かつては千歳川流域をも指す地名だったようです.これは,元のアイヌ語地名がそれとは全く無関係な日本語の地名によって追い出されてしまった例です.

「ランコウシ」が「ランコシ」に,「エサンピタラ」が「イサムタリ」に変わったのはやむをえないことだったと思われます.探検家,開拓使の役人,開拓農民といった人々が耳慣れないアイヌ語の音(おん)を何とか日本語の音に写したからですが,その工夫は,僕には尊いことと感じられます.

死んだカワハラ・カズヤ君と札幌でエスペラント運動をしていたころ,ちょうど20年前の5月の連休に,富良野市山部(やまべ)でエスペラント研修の合宿をしたことがあります.僕は学生時代から,山部から見る芦別(あしべつ)岳が大好きでした.また落ち着いた雰囲気の山部の小さな集落も大好きでした.

芦別」は本来,川の名です.旭川の砂沢クラさんによれば,As pet 「立っている川」という意味だそうです.芦別岳はその源の山です(アイヌは山に名を付けるということをほとんどしません).

山部には大本教北海本苑があって,合宿はその施設を借りて行われました.大本教の開祖出口王仁三郎(わにさぶろう)は信徒にエスペラントの学習を奨励したことで有名です.本苑には王仁三郎の書が掲げてありました.芦別岳を詠んだ歌でした.芦別岳の姿に霊感をえたから,山部を北海本苑の地と選び,芦別岳を歌に詠んだのでしょう.芦別が「あしわけ」と詠まれていたことが注意を引きました.

その後,王仁三郎が東亜(東アジア)における日本の国権拡張論者であることを知り,それをきっかけに「あしわけ」という読みにも,単なる彼の好みだけではなく,北海道を日本化しようとする明確な意志を感じるようになりました.幸い王仁三郎の「あしわけ」は定着しませんでしたが,「ランコシ」が「桂木」に,「イサムタリ」が「ゆうたり」に,「シコツ」が「千歳」に変わるようなことは,彼のような天才を待たなくても,今なおどんどん起きていることです.

私はかつて鳥取県鳥取市に住んでいたことがあります.鳥取市の浜に賀露(かろ)漁港があって,その集落は賀露(かろ)と呼ばれていました.濁音で「がろ」と読みそうなものですが,地元の人は誰も「がろ」とは言いません.「かろ」という音(おん)はおそらく何百年もの間,口伝で伝わったものなのでしょう.それを守ってきた人たちにゆかしさを感じませんか.

そういえば,中国山地には「大山」(だいせん),「蒜山」(ひるぜん),「扇山」(おうぎのせん),「氷山」(ひょうのせん)など「山」を漢音ではなく,呉音で読む山の名がいくつかあります.呉音は漢音より古い漢字音です.呉音の山名を伝承してきた中国山地の人々の,伝統を尊重する気持ちに何かを感じませんか.

アイヌ語地名の問題は北海道の文化の問題です.僕には北海道の文化がしょっちゅうリセットされていて,そのため,この地に少しも伝統が蓄えられていないのではないかと思われるのです.

アイヌ語地名が北海道の文化に深い奥行きを与えてくれるものであることを多くの人に分かってもらいたいのです.アイヌ語地名を廃することは文化の破壊だと思います.

社名淵(シャナフチ)という地名

北海道文化財保護協会が出している『文化情報』第289号(平成18年5月1日)に北見の伊藤せいちさんが「遠軽町の社名淵の地名について」という好エッセーを書いています.

二十数年前,松浦武四郎によって幕末に作られた北海道の地図『東西蝦夷山川地理取調図』の中に,「ヲトツテ」という未知のアイヌ語地名を見つけた.オホーツク沿岸地方,湧別川生田原川の川口より下手の左岸,今でいう社名淵川のあたりに書かれた地名だった.全く意味不明の地名であった.

一方,「社名淵」は,明治二十年の『改正北海道図』の「サナチ川」,明治二十四年の『北海道蝦夷語地名解』,明治三十年の『陸地測仮製五万分図』などの「サナプチ」に遡ることができるが,江戸末期までには遡ることはできないようであった.

しかるに昭和六十年に刊行された武四郎著,秋葉実解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』に「サナブチ」が出ていた.その挿入図には,『取調図』の「ヲトツテ」にあたる所が「サナフチ」と書かれていた.「ヲトツテ」に出会って十二年目のことであった.さらに,秋葉さんにより武四郎の『西蝦夷日誌』,『手控』が刊行されたが,そのおかげで一層確かなことを知り得た.

「ヲトツテ」は「サナフチ」の写し間違えであった.ヲがサの,トがナの,ツがフの,テがチの間違えだった.

伊藤さんは「これほど見事に全体がまちがった例は,初めての出会いであった」と書いています.

アイヌ語地名研究の難しさがよく示されたエッセーだと思い紹介する次第です.ただ残念なのは,「サナプチ」の意味が我々にはまだわからないということです.

シャナフチは遠軽町の北部にあります.親父が勤めていた遠軽中央病院の分院があって,親父は週に一回そこに通っていました.また,祖父がシャナフチの木材で財をなしました.思い出深いところです.