uwekari という副詞について

せっかく地元札幌で言語学会があったのに,急を要する地名アイヌ語辞典の編纂に使うプログラムを突貫工事で作らねばならなかったので参加できませんでした.残念至極です.

疲れた頭には,去年の三月に出した『知里真志保フィールドノート(4)』(北海道教育委員会)の1.4ik, Urashpetun mat hepashi heperai pet otta onkami が慰藉になるので拾い読みをしていたら,最も好きな箇所に自然目が止まった.

323 pon menoko upsoroho akorawoshma.

324 Pirka mouri numachi apita wa uwekari kor

325 pirka pon totto atempatempa wa inu-an ko

323 娘の夜具の中に潜り込みました.

324 美しい肌着の胸紐をほどき

325 美しい乳房(ちぶさ)をもみさすってみると

皆さんには 324 が分かりますか.昨年の春,原稿締め切りが迫っていた頃,uwekari kor の意味が最後まで分からないので,この箇所を訳し飛ばさざるをえなかった.uwekari が uwekarpa 「集まる」の単数形だということは誰にだってわかる.いったい何が集まるのだろうか.uwekari kor 「(わたしの心と娘の心とが)集まって」だろうか.無理だ.そもそも「集まる」という行為が単数形で示されるというのは妙な話だ.頼みの金田一先生は,たとえば

pon-ram orwa | uwekari | abui-sutu | uchiu ninkar | un wa

幼少から | 相めぐって | 我が耳たぶに | 継ぎ目なき耳輪が | はまって (ユ集V p.38)

のように訳されているが,これでは何のことだかわからない.

先ほど,ふと,ふだんあまり見ない田村先生の辞典を引いてみる気になった.

uwekari [自動詞・副詞] 両方から(自動詞の例はないようだ−切替)

uwekari arki (二人の人が)両方から来る(ばったり行き会う) (金田一の「相めぐって」を思い起こせ−切替)

nea pinay uwekari soske hine その谷の崖が両方から崩れて

uwekari uwekari am us hemanta kikiri 左右両側にたくさんのつめが生えているへんな虫(ムカデ)

ようやく,蒙が啓かれたました.uwekari kor pirka pon totto を uwekari kor「集まって」と pirka pon totto 「美しい小さな乳房」に分けて,uwekari を動詞と,kor を 接続助詞と考えたのが誤りであった.意外にも,totto 「乳房」は人称形(所属形)ではなく概念形(基本形)であった.なにしろカワウソの娘さんと乳房の取りかえっこをしたほどの玉だ.乳房だって「譲渡可能」なのだ.だから、所有の動詞 kor に修飾されているのだ.kor は,接続助詞ではなく二項動詞「〜が〜を持っている」で,pirka pon totto 「美しい小さな乳房」を連体修飾している.kor「持っている」 の主語はもちろん pon menoko 「(その)娘」(乳房の所有者).したがって,uwekari kor pirka pon totto は,「(その娘が)左右に持っている美しい小さな乳房」の意味に相違ない.金田一先生の上の引用文の「相めぐって」とあるのも「幼少から我が耳たぶに継ぎ目なき耳輪が左右にはまって」ということと解せられる。

田村先生には深い感謝の念を覚える.また,金田一先生の「相めぐって」も全くの誤りとはいえないことも知り,尊敬の念を新たにしている.uchiu ninkar「継ぎ目なしの耳輪」の uwekari は,左右の耳たぶに耳輪がついているということだった.

先ほど触れたように「集まる」という意味の自動詞は uwekarpa である.これは単数形の欠如した動詞とみるべきであろう.形の上からは,uwekari が単数形とみえるけれど,これは動詞としての働きが失われている.「左右で」「左右に」「左右から」などを意味する副詞になっている.副詞は動詞のすがれたものなのか.

分からなかったことが分かるというのは本当にうれしいことだ.徹夜続きの疲れが吹っ飛んだ.これでようやく,片方の乳房(ちぶさ)が銀と金のカワウソの毛でおおわれている美しい娘を我が禁断の妄想世界で心おきなく愛することができる.また、totto に pon がついているのはいつまでも僕を悩ます.僕の友人の大阪の吉村というやつがかつて「巨乳は下品だ」と慨嘆したことがある.僕も満腔の同意の念を覚える.この箇所、pon「小さな」は落とせない.

念のため訳し直す。

323 pon menoko upsoroho akorawoshma.

324 Pirka mouri numachi apita wa uwekari kor

325 pirka pon totto atempatempa wa inu-an ko

323 娘の夜具の中に潜り込みました.

324 美しい肌着の胸紐をほどき、(娘が)左右に有する

325 美しい小さな乳房(ちぶさ)をもみさすってみると

なお一言いうと、最後の inu-an ko を「(もみさすって)みると」と素っ気なく訳したが、われながら全然もの足りない。inu というのは、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、加えて五感以外の感覚、すなわち第六感、つまり、視覚以外のすべての感覚および超感覚で得られる知覚を指す日本語にはない言葉だ。だから(もみさすりつつ)視覚以外のすべての感覚を動員して固い乳房(ちぶさ)の娘の反応をうかがったのだ(解説するときりがないけれど tempatempa というのは「手探りする」という意味の動詞)。電気のない時代、真の闇。「夜具」と訳した upsoroho、説明しだすとこれもきりがない。無知は悲しいものと知れ。

敢えて言う。昨今のメディアは、視覚と聴覚への訴えしかできまい。また、デジタル化もこの二領域でしか暴威を振るえまい。商品化なんざそんなもんさ。ざまあみろ。人間は、そんなんじゃ捉えられないんだ。(2010 januaro 11 改稿)