狂躁状態

春の陽気でとても心が軽く、人が見たら、さぞかし無責任に毎日を送っていると
思うことでしょう。

今年に入って、いよいよ金田一先生の『ユーカラ集』(9巻)を凌ぐ民話集を翻訳・刊行する準備を始めました。でも知里先生に関する原稿の締め切りが3月10日でしたから、実際に活動を開始するのはその後と、心に決めて1、2月は知里ノートにある民話の翻訳に血まなこでした。

でも、やっぱりいつもの悪い癖が出てしまいました。僕は忙しくなるといつも決まってそれと無関係のことがやりたくてしかたがなくなるのです。生徒、学生時代はそれでずいぶんしくじりました。慶応高校の1年の後期末試験はしくじり人生の始まりとなりましたから今でもよく覚えています。試験1週間前から試験期間にかけて藤村の『夜明け前』を読んでしまったのです。

今回思いついたことはパソコンを自作することでした。民話集の編集およびその文法と辞典の編集に応えるような、また、アイヌ語の録音資料をデジタル化しそれを処理できるだけの高性能なマシンを我が物としたいとかねがね思っていたことが、そのときになって突然吹き出したのでした。

デュアルコアという何のことだか自分でもよく分からない最新の CPU を装備した自作パソコンが首尾よく完成しますと、うれしくて「製品として買えば五十万の値のするのが二十万もしないで作れた」と家内や息子に吹きました。

ところがそれで病は治まりませんでした。

今度はそのマシンに Unix のパソコン用のクローンである Linuxを搭載しようという欲が出てきました。躁の絶頂だったとしか思えません。僕は Cygwin というプログラムで Windows の上に Unix 的環境を実現して、仕事はほとんどその環境のもとでこなしています。テキストを編集・加工などするとき、Unix のコマンドが欠かせないからです。Unix に比べれば Windows なんて玩具のようなものです。でも、Cygwin のほかにも Unix 系の優れたフリーソフトが使えているので、何も Linux を導入しなくともよさそうなものなのに、思い立ったらもう止められません(僕は有料ソフトは使わない主義で、フリーソフトでガチガチに武装しています。ワードやエクセルも使いません。買うのは OS の Windows XP だけです)。

あげくの果ては、せっかく Windows XPCygwin そのほかを数日かけてインストールしたものが、その高速さに酔いしれていたのに、すべてが消し飛んでしまいました。おまけに 2000 枚ほどになっていた趣味で撮った風景写真とネットからダウンロードしてため込んでいた多くの美しいヌード写真が入った外付けハードディスクが飛んでしまいました。

知里ノートの仕事は大学のパソコンでしていましたから大丈夫でしたが、写真がなくなってしまったことをもっと深刻に考えるべきでした。でも躁状態にあったためでしょう、全然懲りないのです。Linux 導入に失敗した後に思いついたのは、自宅サーバーを開設することでした。

アイヌ民話集は14、5名の陣容で取り組む予定ですが、共同作業を行うためには Wiki というプログラムの導入が不可欠だと思われました。自宅サーバーを立ち上げれば制約の多いプロバイダーとの縁が切れるのです。思うがままに Wiki が使えます。

自宅サーバーが開局したら、おまえたちのメールアドレスも作れるし、ニフティーに今後一切世話にならなくともいいようになるから、月一万は軽く浮くようになるよ」と言って、家内にブロードバンド・ルータの金を出させました。

自宅サーバーの立ち上げも Linux 以上に困難で、20日ほど悪戦苦闘しましたが、とうとう失敗してしまいました。そのためブロードバンド・ルータも無意味になってしまいました。

幸い、その間にも知里ノートの原稿が進んで、締め切りに間に合わせることができました。また、index-dictionary も(Unix のコマンドを駆使して)短期間のうちに完成しました。高一のときの二の舞にはなりませんでした。むなしく歳を重ねたばかりではないようです。

次にいよいよ本命の Wiki なんですが、すでに一月にニフティーの無料レンタルの Wiki を仲間の間で使ってみていました。このとき、 Wiki の驚くべき機能に初めて触れることができました。でもレンタルの Wiki のできは悪く、こんなものでは使い物にならないと、いろいろな Wiki クローンをダウンロードして見たのですが、いずれもセットアップに失敗しました。しかしとうとう PukiWiki というふざけた名前の Wiki に出会い、ニフティーをサーバーとする立ち上げに成功しました。そしてこの一週間は夢中になって試運転をしています。

Wiki は僕の頭をすっかり変えてしまいました。研究は一人でするもの、というのが恩師の教えでしたが、共同で研究することの喜びをようやくかみしめています(Wiki は collaboration tool と呼ばれています。共同研究に革命的な変化をもたらすものと確信しています)。

PukiWiki の立ち上げと同じ頃、ブログ Blog も開設しました。このほうは、あっという間に立ち上がりました。

一種の狂躁状態ですね。いつまで続くのでしょうか。

梅田望夫ウェブ進化論 本当の大変化はこれからくる』(ちくま新書)は最近読んだものの中でもっともおもしろかった本です。Wiki や Blog、また、collaboration の考え方はこの本で知りました。この2、3週間は完全にこの書物の影響下にいます。梅田さんという人は塾高の五年ほど下の後輩のようです。

勝手なことばかり長々と書いて来ました。この辺で今日は失礼いたします。お体を大切に。

「真駒内」の由来

一週間前に初めてブログに書いて、その後、体の調子が悪くなり(自律神経失調症)、週の大半は寝床に転がっていたので、今朝までこのページが開けませんでした。

今朝、一週間ぶりで見てみるとコメント欄にライブドアの勧誘が書き込まれていました。こういうのはいやだね。それにライブドアって小汚い商売をしているところだろう。後でなんとか消してやろうと思っています。

ところで「真駒内」にリンクが張られて、次のような記述を読むことができました。アイヌ語に無知だからだろうけど、無批判な受け売りです。引用したうえで誤りを正しておきます。

マコマナイ(mak-oma-nay:奥、にある、川)。アイヌ語の mak は「後ろ、奥」、それに対する sa は「前」と訳すことができます。これが地名に現われる場合、mak は「山手」、sa は「浜」となります。これは、アイヌが浜を向いて生活していた民族だったから、ということができると思います。

マコマナイは、「山の奥から流れてくる川」という意味になります。地図でみると良くわかるのですが、この豊平川沿いの他の河川と比べると、真駒内川は格段に奥深いところから流れてきています。

mak というのは、川に対して後ろの方向,つまり,川に対して垂直に川から遠ざかっていく方向のことです。これに対して川に沿って、つまり川に対して平行の方向というものが考えられます。それには上向き、下向きの二つの方向があって、それぞれ kim (山手、川上方向)と sa (浜手、川下方向)といいます。

さて、mak には、よほど広大な平野の中を流れる川でない限り、たいてい山がありますから、日本語に訳すと mak も kim も同じく「山手」になってしまうことが多いのです。しかし、mak と kim の違いははっきりしています。ただこの違いは、僕がアイヌ語十勝方言の分析を進めているときに「発見」されるまでは研究者の間で知られていなかったのです。mak に対応する概念が日本語にないのもその発見が遅れた原因だと思います。知里真志保先生や山田秀三さんはこの違いを自覚されないままに、mak を「後背」「後ろ」「奥」などと訳されています。上で引用した解説文では「山の奥」「奥深いところ」とされ、山田さんの所感がそのまま踏襲されていますが、川の源の山奥は kim であって、mak ではありません。また、先に示したように sa に対立するのは mak ではなく kim です。なお、sa には「前」などという意味はありません。「前」は kotcake です。

定山渓の山々の間を東へと流れる豊平川 Satporo を下るとき、その左岸(北側)は歩くことはできません。険しい断崖が続いているからです。それで、アイヌは右岸(南側)を歩いたに違いないのですが、やがて Satporo は真駒内 Makomanaj の柏丘にぶつかり向きを北へ変えます。ここで、今度は右岸が歩けなくなるのです。柏丘の断崖だからです。そこで、より下流の豊平 Tujpira に出るためには柏丘の鞍部(石山陸橋のあたり)を乗り越えてこの難所を回避する必要があります。Satporo を徒渉する手もあったのかもしれませんが、このあたりは水量が多くかつ流れが急です。

柏丘を越えると遠く南方の空沼岳を源とする真駒内川 Makomanaj が流れています。この川は柏丘の背後を巡って今の真駒内公園の北端で Satporo に合流していますから、これを下っていくとまもなく、再び Satporo に出ることができるのです。そこまで来れば、Tujpira はもうすぐです。

Makomanaj が当時重要なルートであった Satporo を上り下りするアイヌによって Satporo の mak にある川と認識されていたということは、もうおわかりと思います。

初めまして

札幌 Satporo の真駒内 Makomanaj に住んでいる年の頃50余りの初老の男性です(谷崎潤一郎の小説に「年の頃四十ばかりの初老の男が」という文句があったと記憶しています)。

1954年の3月に、北一条にあった市立札幌病院で生まれました。梅田望夫さんに「ゲイツも歳とったなぁ」(『ウェブ進化論ちくま新書 p.222)とこきおろされたビル・ゲイツの1歳年上です。

満1歳から10歳までオホーツクに近い遠軽 Inkar という小さな町で育ちました。19で Satporo に舞い戻るまで、千葉や横浜にいました。28で結婚し小樽 Otaru に住み、35ごろだったかな、鳥取に移りましたが、2年半で Satporo に帰ってきました。

アイヌ語研究を仕事にしています。うそじゃないよ、ほんとだよ。

趣味はエスペラントと自転車。オートバイも好きだけど。苦手なものは語学。

かましいと思いますが、ロングテール Long Tail (上掲書 pp.98-100)の末端に連なることをお許しください。よろしく。

なお、このサイトのタイトルは Makomanajunkur Tokampi となっていますが、「真駒内に住んでいる人の日記」をアイヌ語に訳したものです。マコマナユンクル トーカンビと読んでください。