アイヌ語の地名を守れ

千歳市千歳川筋に「桂木(かつらぎ)」という地名があります.14,5年前,そこに住んでいた小田イトさん,白沢ナベさんという二人のアイヌのおばあさんに,桂木の元の名は「ランコシ」と教わりました.もっとも,本来の音(おん)は Rankowsi ランコウシ(ランコーシではない)で,Ranko-us-i 「カツラの生えている処」という意味だったそうです.戦後になって書かれた名取武光先生の民族学の論文にも「ランコシ」が出てきます.今でもアイヌ系の人が多く住む処です.いつから「桂木」に変わったのか知りませんが,残念なことをしたものです.ランコシという美しい地名がなくなってしまったことが惜しまれます.

地名は歴史の碑(いしぶみ)だと思うのです.アイヌの歴史をそんなに抹殺したいのでしょうか.

十勝の利別川筋に「勇足」という地名があります.「ゆうたり」といいます.おそらくそれはかつて「いさむたり」と読まれていたのでしょう.本来のアイヌ語は E-san pitar エサンピタラ であって,たぶん「川下の方へ伸びて突き出ている砂利の洲」という意味だったと思います.勇足は本来の地名の音(おん)も意味も失われてしまった例です.

千歳は Si-kot シーコッ 「大きな窪地」と呼ばれていましたが,どうしたわけか「千歳」というお目出度い名前に変えられてしまいました.さいわいSi-kot は湖の名(支笏湖)として残っていますが,千歳アイヌがかつて Si-kot un kur シーコッウンクル「シーコッの人」と呼ばれていたことから想像すると,かつては千歳川流域をも指す地名だったようです.これは,元のアイヌ語地名がそれとは全く無関係な日本語の地名によって追い出されてしまった例です.

「ランコウシ」が「ランコシ」に,「エサンピタラ」が「イサムタリ」に変わったのはやむをえないことだったと思われます.探検家,開拓使の役人,開拓農民といった人々が耳慣れないアイヌ語の音(おん)を何とか日本語の音に写したからですが,その工夫は,僕には尊いことと感じられます.

死んだカワハラ・カズヤ君と札幌でエスペラント運動をしていたころ,ちょうど20年前の5月の連休に,富良野市山部(やまべ)でエスペラント研修の合宿をしたことがあります.僕は学生時代から,山部から見る芦別(あしべつ)岳が大好きでした.また落ち着いた雰囲気の山部の小さな集落も大好きでした.

芦別」は本来,川の名です.旭川の砂沢クラさんによれば,As pet 「立っている川」という意味だそうです.芦別岳はその源の山です(アイヌは山に名を付けるということをほとんどしません).

山部には大本教北海本苑があって,合宿はその施設を借りて行われました.大本教の開祖出口王仁三郎(わにさぶろう)は信徒にエスペラントの学習を奨励したことで有名です.本苑には王仁三郎の書が掲げてありました.芦別岳を詠んだ歌でした.芦別岳の姿に霊感をえたから,山部を北海本苑の地と選び,芦別岳を歌に詠んだのでしょう.芦別が「あしわけ」と詠まれていたことが注意を引きました.

その後,王仁三郎が東亜(東アジア)における日本の国権拡張論者であることを知り,それをきっかけに「あしわけ」という読みにも,単なる彼の好みだけではなく,北海道を日本化しようとする明確な意志を感じるようになりました.幸い王仁三郎の「あしわけ」は定着しませんでしたが,「ランコシ」が「桂木」に,「イサムタリ」が「ゆうたり」に,「シコツ」が「千歳」に変わるようなことは,彼のような天才を待たなくても,今なおどんどん起きていることです.

私はかつて鳥取県鳥取市に住んでいたことがあります.鳥取市の浜に賀露(かろ)漁港があって,その集落は賀露(かろ)と呼ばれていました.濁音で「がろ」と読みそうなものですが,地元の人は誰も「がろ」とは言いません.「かろ」という音(おん)はおそらく何百年もの間,口伝で伝わったものなのでしょう.それを守ってきた人たちにゆかしさを感じませんか.

そういえば,中国山地には「大山」(だいせん),「蒜山」(ひるぜん),「扇山」(おうぎのせん),「氷山」(ひょうのせん)など「山」を漢音ではなく,呉音で読む山の名がいくつかあります.呉音は漢音より古い漢字音です.呉音の山名を伝承してきた中国山地の人々の,伝統を尊重する気持ちに何かを感じませんか.

アイヌ語地名の問題は北海道の文化の問題です.僕には北海道の文化がしょっちゅうリセットされていて,そのため,この地に少しも伝統が蓄えられていないのではないかと思われるのです.

アイヌ語地名が北海道の文化に深い奥行きを与えてくれるものであることを多くの人に分かってもらいたいのです.アイヌ語地名を廃することは文化の破壊だと思います.